ボジョレーヌーボーと風刺新聞(カナール・アンシェ)の関係

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1951年の制度が制定されてから今年で実に62年間!

しかしそもそも、ボジョレーヌーボーの誕生とは何だったのでしょうか?世界的なこの成功の誕生のきっかけとは?
この早生ワインを世界的レベルでの新酒として世に送り出すことができたこの偶然なのか、それか緻密な計算の末なのか、世紀を超えた成功の裏に、戦争、ドイツ、生産者、ジャーナリスト、作家、芸能関係者、出版関係者そして政治屋さんの思惑とは!?!!
誰も語らなかったボジョレーヌーボーの歴史!今年も飲む前ちょっとだけトリビア。。

参考資料:Dossier: L’HISTOIRE DU BEAUJOLAIS NOUVEAU Hachette
参考資料 :  vitisphere.com

実はボジョレーヌーボーの誕生とは。。第二次世界大戦前、カナール・アンシェネという辛辣な風刺で有名な新聞の創始者モーリス・マレシャル氏が非常に関与しているのです。うーん。これもまたフクシマの風刺画の件で日本と縁が深いのかどうか。そいえばボジョレーヌーボー輸出分の半分は日本で消費されていますからね。ご縁あるのね。あなたとも。。。。(どういう絵だったかは下のロゴをクリック)
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さて、そのマレシャル氏とボジョレーのジュリエナ村(80年代のディスコじゃないよ)生産者ビクター・ペイレ氏、実は仲が良くて、マレシャル氏、いつもパリでボジョレーを褒めていたそうです。ペイレ氏は、シャトー・キャピテンのオーナーだけには留まらず、オーベルジュ・コックオーバンをも改装、さまざまなパリの文化人をもてなし、(今でもペイレ賞というワインジャーナリストのための表彰式は小規模ながら残っています)そして、第二次戦争中、ドイツ占領期も多くのパリのジャーナリストが首都の検閲を逃れてリヨンに避難してきました。不遇な彼らに充分に飲ませたり食べさせてあげることはできませんでしたが、リヨンのブションと呼ばれるビストロの同業者が彼らを援助をしたことも忘れてはなりません。

戦争明けて1946年、リヨンに避難していたジャーナリスト、グレンシェールと、カーノンスキーが『風刺アカデミー』を設立。これはワイン関連や生活礼賛の作品が世に出され、コレット、イヴァン・オウドワードなど、コメディアン、歌手、風刺画家、パリやリヨンのジャーナリストや、プロデューサーなどの文化サークルができあがりました。その文化人サークルの中にもボジョレーのブルイィ村の法医学の先生でもあり、オーナーでもある人が含まれてたり。。今はこのサークル、ブルイィ村のChateau Thivinで引き継がれてて行われてるとか。

参考資料: Le découvert de Julienas   Blog Hachette Vin

そしてやっと1951年、ボジョレーヌーボーの夜明けはやってきます!

19世紀から実はボジョレーヌーボーはパリでは売りに出されてはいたのですが、特に発売日が決まってるとかそういうことはありませんでした。占領下中における品不足の時期を経て、戦後ローヌ選出の下院議員、ジャン・ラボルドの後押し(袖の下?)もあり、ボジョレー、コートデュローヌ、ブルゴーニュ赤白、マコン・ブラン、ガイヤック、ミュスカデは11月半ばに独占的にプリムールでも出してもいいという決定にたどり着いたのです

l’INAO(国立全国原産地名称協会)は1967年にプリムール(新酒)の発売は11月15日に決定してたのですが、週末にひっかかったり、その日に醸造終了が間に合わなかったりする日もあり、そしてようやく1985年にやっと今の慣例となりました11月第3木曜日に落ち着いたのでした。(つまり一応の決まりとしてギリギリ一週間前まではワインが桶を離れてはいけないという原則・・なんだけどもうすでに一週間前に成田に届いている現実?)

と言うことで前半はここまで。。

ボジョレーヌーボーの隠された歴史!カナール・アンシェネの創始者を始めドイツ占領下時代のレジスタンスのジャーナリストたち、ローヌの政治家、ボジョレー生産者たちの思惑、良い感じにミックスされて来ました。次回はもう広告会社いや、ユダヤ系フランス情報局の活躍が出てくる予定です。

「ボジョレーヌーボーと風刺新聞(カナール・アンシェ)の関係」に2件のコメントがあります

  1. ピンバック: ボジョレーヌーボーとフランス情報局の関係 | Kyotoite en Provence

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